館長BENさんの気まぐれロード №2009-26 長野市民新聞コラム
2009.11.22
久しぶりの「気まぐれ」です。長野市民新聞に定期的に寄せているコラムを紹介します。
お時間のある方は読んでみてください。
マスクと石 (2009年6月2日付)
最近のニュースのトップは新型インフルエンザであった。
その少し前は百年に一度と言われる経済不況だった。
不況は続いているようだが、インフルエンザのお陰でまるで景気が回復したように忘れ去られようとしているかのようでもある。
いずれにしても昨今の世相は「騒ぎ過ぎ」の印象は免れない。
これをマスメディアの仕業とやっと気づいたように指摘する方々もいるが、最早それは責任転嫁で、マスメディアはそういうものだと認識した上で、考えてみるべき時代である。
とにかく日本人は騒ぎが好きなようで、その原因は「染まりやすさ」で、これは全体主義にも通じる要素を持っていて恐ろしい。
また、これは自分の身の安全に関わるとか、とにかく自分に影響が及ぶかもしれないときに、異常に反応する傾向にある。
いやはや、ほとんどの人がマスクをつけ、改札口を出てくる光景のテレビ映像は異様に感じた。
その異様さは顔を半分近く隠しているということにも起因するが、何となく他者を拒絶している意思表示にも見えて、私には空恐ろしかった。
ウィルスを拒絶するためのマスクなら少なくともワクチンができ、抗体ができるまで外すことはできないだろう。にもかかわらず、今に騒ぎが収まれば、きっとマスクを外してしまうに違いない。
だったらマスクはいかほどの意味を持つのかと問うてみたい気がする。
マスクは自分を守りたいという意思表示に過ぎないのかも知れない。
そうするとマスクは自分を守るために他者を拒絶する象徴に見えてくる。
この象徴が売れに売れている。
マスクとタミフルがもしも経済危機を救うことができれば、戦争景気も頷ける。
しかし、市場経済はそんな単純なものとも思えないが、もしかしたら、根本はそんな単純なものかもしれない。食うか食われるか、殺すか殺されるか・・・
(話が変な方に向かいそうだ。元へ)
我宿のベランダの近くの巣箱にシジュウカラが営巣を始めた。
以来私はベランダに出るときに小鳥がいるかいないか探りを入れる。
吃驚させないようにとの気遣いだ。ベランダに私がいるときに小鳥がやってきた場合は、私は動きを止めて石になる。
息を殺して見守りながら「自然との共生」ということのほんのさわりを実感する。(その話はまたいつか)
騒ぎのときはマスクしないで石になって、じっと息を殺して見守ることも何かの役に立つかもしれません。
(脚本・演出家 森の宿林りん館館長)
薬・くすり・クスッ (2009年8月25日付)
「話したいことがあるの。今日じゃなくてもいいから、連絡頂戴」。
珍しくT老婦から電話が入った。家の中に閉じこもりがちになったTさん、こちらから連絡をとることはあっても最近は彼女の方からの連絡はなかった。
重大なことでも生じたのだろうかと、早速訪ねるといつものTさんで、緊迫感はなく、物忘れが激しく、言った瞬間から同じことを繰り返す認知症的症状も変わりはなかった。
81歳のTさんは最近自殺を口にするようになっている。
「もう生きていてもつまらない。裏の川に飛び込もうかしら」「水かさの少ない川ではどうかねえ。
笑いものになるだけだね」「そうだよね、じゃあ、どうしようか」
小川村には老人世帯への配食サービスがあり、私も隔週の火曜日に弁当を届けているが、一人暮らしの老人は、当然毎日独りで食事を摂っているわけだ。
その寂しく惨めなことは、想像に難くない。そして、ただそうして死を待っているだけだとしたら、やりきれない思いだ。
そんな折、ある女性の紹介で、小川康(やすし)さんに会った。
東北大学薬学部を卒業後幾多の体験を経て、チベットに渡りチベット医学を学んで帰国。配置薬の認可もとった。「薬を売るだけじゃなくて、一緒に農作業したり語り合ったりして信頼の絆をつくりながら・・・」
彼は薬剤師の資格も持ち、チベット医「アムチ」の資格も得ている。「アムチは社会との相互関係、多面的な文化の中に成立しているものだということに気がついた」と彼は言う。
健康は他人や社会との相互関係(つながり)と密接な関係があるようだ。
余命2年以内の乳がん患者たちにグループセラピー(コミュニケーションをもつ)を施したら2倍以上も長く生き延びたという、米国の精神科医デビットスピーゲルの実験もそれを物語る。
小川さんは柳行李に伝統的な和漢薬を詰め、昔さながらのスタイル(富山の薬売り)で街を、村を、歩き始めようとしている。「チベット医学から学んだことは奇跡の薬草でも霊的な癒しでもない。
歩き、語り、歌い、ふれあうこと」と語る小川さんにとっては、売薬は自分と他人を繋ぐ道具でしかなく、道具を通してのふれあいこそが、真の「くすり」なのかもしれない。
路傍に腰を下ろし、独り暮らし老人と笑いあう小川さんは往診の医師でもある。そんな医療が求められる時がそこまできている感じがする。
衆議院議員選挙戦も真っ只中。各党のアメのばら撒き政策では、人寄せはできても人の心は救えない。クスッ。
(脚本・演出家 森の宿林りん館館長)
イソップ物語のその後 (2009年11月17日付)
イソップ物語に「田舎(いなか)のねずみ」と都会(まち)のねずみという寓話がある。
都会のねずみが友人の田舎のねずみを訪ねる。
田舎のねずみはご馳走を出して歓待するが、都会のねずみは「どうして君はちっぽけな穴倉で貧しい生活をしているのかね、都会に来たまえ、結構な食べ物があるんだ」と田舎のねずみを誘う。
その夜、田舎のねずみも一緒に都会に行くが、恐ろしさのあまり逃げ帰る。貧しくとも麦と豆の生活で静かに暮らしたいという内容である。
* * * * *
最近は「大自然の中、自分で作った野菜を食べる、新鮮な野菜が食べられる、これって最高の贅沢ですよね」といった内容の都会のねずみたちの言葉を耳にする。
ちょっと待った!
田舎のねずみにとって畑の野菜を食べる、これは普通で当たり前のことであって、何も贅沢なことではない。それは都会のねずみの価値判断に過ぎない。
私が危惧することは、価値基準が都会の価値基準に普遍化していくことである。
普通だと思っていた「0」君は「-3」君を基準(0)にすれば「+3」君になってしまうのだ。菟出していることに落ち着かない「+3」君は0(つまり-3)に戻ろうとしていくだろう。
マスメディアに登場し、マスメディアでもの申しているのはたいてい都会のねずみである。いまや政治家もそうなりつつある。
田舎では当たり前のことが、それを知らない都会のねずみにとって珍しく映れば、特別なことにされてしまいがちである。
田舎の食文化、特にこれまで各地に当たり前としてあった郷土食も「贅沢もの」とされれば、贅沢は時々で良いし、無くても良いものになってしまう。
都会風の食事が普通になり、田舎のねずみまで「郷土食は最高の贅沢」なんて言うようになって欲しくない・・・
* * * * *
幾世紀も経て、都会のねずみは再び田舎のねずみを訪ねてポツリと言った。
「僕はもう食べるものが無くなった。けど、君はまだ、麦や豆を食べているんだね」
(脚本・演出家 森の宿林りん館館長)
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コメント一覧
akemi.m様。コメントありがとうございました。
そこで田舎のねずみは言いました。「それぞれの生き方があるよね。僕はただ都会が怖かっただけさ。麦や豆でよかったらお食べよ」
イソップおじさんは都会のねずみがかわいそうだとも思いません。ただ田舎のねずみに「自分の食べているものは最高の贅沢」なんて思わないで欲しい、と願うだけです。(BEN)
投稿者 館長 : 2009/11/27 10:21













そして都会のねずみは気ずくの。
街を自分のいなかにしようと。
きれいにして、ビルの上には木を植え、公園の中に畑があり、
街路にはたくさんの植物がある、
ここが都会のねずみの居る場所に。
都会のねずみは、いなかのねずみが食べてるもの
決してばかになんてしてないはず。
三ツ星のチーズより山羊のチーズ、
それがうらやましいと思うだけで。
高いビルよりアルプスの山が、
時々、あふれかえるイルミネーションより夜空の星が、
ただうらやましい、
都会のねずみ、なかなか大変なんです。
投稿者 akemi,.m : 2009/11/26 20:13